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2016年10月31日月曜日

三式戦闘機 飛燕 川崎重工 復元(レストアPROJECT)


川崎重工の創立120周年記念にあたり、

前身である川崎航空機が製作した「三式戦闘機 飛燕」をレストアし

神戸ポートターミナルで11/3まで展示しています。




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2015年4月7日火曜日

長崎旅行記④ 黄檗宗 聖壽山 崇福寺


長崎県の古刹「崇福寺」に行ってきました。

ここには、九州に5つある国宝のうち2つを見ることができます。




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2015年3月26日木曜日
2013年9月5日木曜日

東京 九段下 祖父の資料探し


8/25

午前8時に東京メトロの「九段下駅」で下車しました。

目的は、祖父の終戦間際の出来事の資料を探すためです。





祖父がこの世を去ってから、もうすぐ20年が経とうとしています。

祖父と同じ激動の時代を生きた方達も、ご存命の方が少なくなってきました。

約1年の間、祖父の部隊の方の行方を捜し、

何人かそれらしき人に電話で連絡をとったりもしたのですが、

結局見つけることはできませんでした。

つかめた情報は当時ジャワ島に駐留していた練成飛行部隊は

「第七練成飛行隊」もしくは「第十八練成飛行隊」ということだけ。

なかば行き詰ったのを打開するためにはやはり上京するしかありません^^;




まずは、靖国神社にお参りです。

前回来たのは四年ほど前です。

鳥居をくぐり参道を奥へと進むと、大きな銅像が姿を現します。




日本陸軍の父「大村益次郎」の像です。

なぜ大村益次郎の銅像なのでしょうか?


これにはちゃんと理由があります。


元々靖国神社は帝国陸軍の戊辰戦争で亡くなった軍人を祭る目的で作られたもので、

旧陸軍省が管理していたものです。

現在のように戦没者全般を祭るような目的で作られた訳ではありませんでした。

ですので、日本陸軍の創設者であり、暗殺された大村益次郎を偲んで、

陸軍省により銅像が建てられたという事です。

大村益次郎のお陰で、近代化された討幕軍が幕府軍を打ち破る事が出来たのですから、

大村益次郎は明治維新の立役者でもあるのです。



さらに奥へと進むと本殿に到着です。




今回は、祖父の飛行兵時代の唯一の写真も持参しました。

祖父は戦死してはいないので、靖国神社には入っていません。

ここに眠る戦友と、久しぶりの再会といったところでしょうか^^


参拝を済ませて、御朱印をいただき、となりにある遊就館へ向かいました。




ここは戊辰戦争から太平洋戦争までの様々な資料が展示されています。




今回はちょうど大東亜戦争七〇年の特別展を開催していました。





中へ入ると、エントランスにどかーんっと

国内で現存する数少ない一機が展示されています。

そう、最近公開になった宮崎アニメでも登場するゼロ戦こと「零式艦上戦闘機」です。

想像するより、うんと小さく感じます。

中の展示物は撮影禁止なのでここまでです^^;

ゆっくり見て回っても軽く一時間半ほどかかると思います。

機会があったら是非入ってみて下さい。




毎年、八月になると話題になる「靖国神社」ですが、

絶えずたくさんの人が参拝に訪れています。

ちょうどこの日は、ボランティアの清掃の日でした。




雨の中、大勢の方が集まっていました。

僕もお手伝いしたいところですが、時間が少ないので先へ進みます。



遊就館のとなりにひっそり建っているのが「靖国偕行文庫」です。

ここには、約13万冊の図書資料が収蔵されており、

その主体は戦史・戦記・部隊史・教程・教範類・英霊の追悼録・回想録等の

日本近代軍事史関係資料です。

その他、神道関係資料をも収蔵する日本近代軍事史の専門図書館なのです。


中では学芸員の方が、親切に対応してくださり、

「少年飛行兵」に関する膨大な資料を見せて頂きました。

しかし、戦闘隊などと違い「錬成飛行隊」の記録は数が少なく、

公に出版されている本からは見つけることができませんでした。


唯一、手がかりがあったのは2006年に解散してしまっている「少飛会」という

元少年飛行兵の方たちの戦友会が会報として出版していた「翔飛」という

冊子でした。

この偕行文庫には解散した2006年までの全ての「翔飛」が保管されていました。

その中の数冊を時間の限り読み漁りやっと一つ見つけたのが、

これです。



少飛甲種15期の足跡というコーナーの片隅に「第七練成飛行隊」のことが記述されていました。

まだまだたくさんあるので、全部読んで調べたいところですが、

他にも回るところを予定してきているので、

そろそろ次へ行かなくてはなりません。




次は九段下の駅前にある「しょうけい館」です。




ここにもたくさんの資料があるそうなのですが、この日は日曜日で学芸員の方がお休み((+_+))

自力で探すことは不可能に近いので諦めました・・・

そして、すぐ近くにある「昭和館」へ向かいます。




ここは思ってたのと全然違いました^^;

昭和の生活雑貨を展示してるだけでした。。。

家族連れがたくさん来ていて、「あー昔、これうちにあったよ!」なんて声が

いたるところで聞こえます。

まぁ僕は一人なんで、寂しくさっと見て回るだけですw


そして残念ながら、今回の上京での調査はここで終了です(:_;)

本当はまだまだ行きたいところがあったのですが今回は行けませんでした。



防衛省防衛研究所

国会図書館

航空図書館

平和記念展示資料館



などなど・・・・

残念無念です。

またできれば年内に上京してこの続きを調べたいと思います。



今回の旅の続きは、また次回に・・・




最後になりましたが、僕の祖父についてのブログの記事を観覧してくださり

それ以来、数々のアドバイスや資料を提供していただきました「細田さん」に

この場を借りましてお礼を申し上げたいと思います。

今回の上京にあたっても、たくさんの情報を頂きすごく助かりました。

本当にありがとうございました。




関連記事:


祖父の終戦体験 - 少年飛行兵 特攻兵(前半

祖父の終戦体験 - 少年飛行兵 特攻兵(後半)

実録 ほくろからみた陸軍少年飛行兵 「えっ。そうなの!?」 作:細田京香

東京 九段下 祖父の資料探し

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2013年8月17日土曜日

旧真田山陸軍墓地


8月15日


68回目の終戦記念日です。


豊国神社にお参りするか悩んだ末に、


今年はまだ行ったことのない「旧真田山陸軍墓地」に参拝することにしました。


37度の猛暑の中、自転車を漕ぐこと45分。


フラフラになりながら到着しました^^;





この大阪市内の「真田山」というところは、


かの有名な猛将「真田幸村」が「大阪城夏の陣」で「真田丸」という砦を構えたのが、


地名の由来となっています。


山というより、なだらかな丘陵です。


その一角に広大な墓地がひっそり佇んでいます。





ここが入口。


終戦記念日は毎年、夜の7時から「万灯会」が行われています。






入ってすぐに管理事務所があります。


毎月、第四日曜日の午後一時から見学会が行われているそうです。





入ってすぐに目に飛び込んでくるのは、数えきれない墓石の数々。


この「真田山陸軍墓地」は1871(明治4)年に旧陸軍が設立した日本最大最古の軍人墓地です。


敷地内には約5300柱の墓石が並んでいます。








墓石の多くは戊辰戦争から西南戦争日清日露戦争の頃の方のものが殆んどです。




将校用は大きく花崗岩製の立派なものが多く、


下士官・兵隊、軍の雇った人夫のものは脆い砂岩製のものが殆んどで割れたり崩れたり、


風化しているものが目立ちます。


また、階級が下になるほど小さくなるのも特徴です。



納骨堂


日中戦争の頃、被葬者が膨大になったことから、


一人ずつ墓石を立てるだけの面積がなくなってしまい合葬墓になりました。


太平洋戦争中の1943(昭和18)年には納骨堂が建てられ、


ここには約4万3千人分の遺骨が眠っています。


その多くが骨壺の中が空っぽで遺髪だけだったりするそうです。





1947(昭和22)年に国から大阪市が管理を引き継ぐと、


四天王寺の住職さんが中心となって地元の人と保存会をつくり、


少しずつ修復と整備を行ってきましたが、納骨堂だけは管理が行き届かず


今でも雨漏りがひどく崩れそうな状態だそうです。





ここも管理事務所。


歴史を感じる建物です。


終戦までは陸軍が管理し、衛兵が常駐するなど整備が行き届いていましたが、


終戦直後の治安の悪化した時期には強盗や泥棒を働く集団の溜まり場となっていたらしく、


怖くて墓参りもできず墓地も荒らされてしまったそうです。





敷地の隅に「空堀地蔵尊」のお社が建っています。


おそらく、空堀(からほり)町というのが墓地の近くにあるので、


空堀地蔵という名がついたのでしょう。


戦前より 「早起き地蔵」とも呼ばれ 真田山墓地にあったようです。



ここの空堀は有名な「空堀商店街」の空堀(大阪城の外堀)ではなく、


真田幸村が真田丸を築いた時の空堀だと思われます。





真田幸村公の銅像


陸軍墓地のすぐ横に「三光神社」があります。


ここは真田幸村に所縁がある神社だそうで、敷地の中に銅像が建っていました。


昨今の戦国武将ブームで、若い人の参拝も多いとか。





銅像の横には、「真田の抜け穴跡」というのがあります。


諸説あるようですが、大阪城からここまで抜け穴があったのではないかと言われているそうです。


この三光神社の近所には「心眼寺」という、これまた真田幸村にゆかりのある古寺もあります。





昨日のNHKの番組で全世代にアンケートを採ったところ、


3割もの人が8/15が終戦記念日だということを知らないと答えたそうです。。。


俄かに信じがたい結果です。


若い世代ほど、その比率は増えるのですが、戦後生まれの世代は多かれ少なかれ、


「知らない、忘れた」という人が増えているというのは事実のようです。


戦後の「平和教育」というのが、



戦争=悪

  死=悪

軍隊=悪



という、単純な刷り込み教育の結果がこの状況の一端にあるのではないでしょうか。


終戦記念日の前日のニュースの特集での一場面です。




小学校低学年の子供に「戦争について、どう思う?」と質問する。

子供は「戦争は人が死ぬから駄目なこと。悪いこと」と反射的に即答する。




この答え自体には、いろんな意味があり、正解も間違いもないと思うのですが、


ときには、


自分の命だけでなく、家族や他人の命や財産を守るために戦わなければ


ならないときがあり、また民族の自由と誇りの為に落とす命もあるでしょう。
(自衛隊・自衛戦争)


まだ、年端もいかない子供に対して、単純に


戦争=悪

  死=悪

軍隊=悪


というような刷り込み教育は、本来の意味を理解せず、


「昔、日本は戦争をした(悪いことをした)」


という偏った見方の自虐史観を植え付けているだけに過ぎないと思うのです。




過去の日本がすべて正しかったいうのではありません。


自国の正しい近代史をしっかり時間をとって学ばせることで、


本来の平和へのあり方を考えられる力がつくのではないでしょうか。





この墓地に埋葬されている多くの人達は、


国家の繁栄と平和を願って従軍し命を落とした人達です。


アメリカなら自国の為につくした人は将官から一兵卒まで、


軍人に限らず、すべて等しくバージニア州にある「アーリントン国立墓地」に埋葬されます。


世界各国にはそういった国立の墓地が必ず存在します。


そこには、日本の歴代首相も含め、各国の要人が参拝します。


しかし、日本にはそれがありません。


この寂れて、崩れかかった墓地に埋葬されている人と、


他国の兵士と何が違うのでしょうか?







わけのわからない「海の日」やら「体育の日」なんてのをつくるぐらいだったら、


8/15は静かに英霊に祈りをささげる日として祭日に指定したらいいと思います。


他国に内政干渉、信仰の自由を阻害されることを良しとしてはいけません。







今回はちょっとイデオロギー色の強いブログになってしまいましたが、


この陸軍墓地の周りには先述しましたように、


いろんな歴史を見て学べる場所がたくさんあります。


駅からも近いですので、興味がある方は是非一度、訪れてみて下さい。









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・旧真田山陸軍墓地
・三光神社


JR環状線・長堀鶴見緑地線「玉造」駅、徒歩10分











関連記事:


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2012年1月19日木曜日

祖父の終戦体験 - 少年飛行兵 特攻兵(後半)

前半はこちら


バンドンから約5時間かけてカンボジアのプノンペンに無事到着しました。

プノンペンには各地域からたくさんの部隊が作戦にむけて集結してきていたようです。

そして8/15正午からの玉音放送にて、

日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏したこと知らされたのでした。




飛行場で泣き崩れ立ち上がれないものや、

このまま捕虜になるぐらいなら敵に一矢報いるという者もいたようです。

しかし、祖父の部隊の市来中尉は、

とりあえず全員生きて本国に帰ることを指示し、準備に取り掛からせました。

しかし難題がいくつもありました。




まず、ここプノンペンから一番近い鹿児島の知覧特攻基地までは直線距離で約3400km。

三式戦闘機(飛燕)の通常航続距離は約1800km。

約2倍の燃料が必要になります。

そして、日本軍はフィリピン、グアム、サイパン、沖縄と次々に玉砕していたので、

途中に着陸できる場所は台湾しかありません。




中尉は全32機の両翼に増槽(ぞうそう追加タンク)の取り付けを命じます。

一つの増槽で約600km追加で飛行できます。

しかし計算上ではこれを二つ付けても合計で3000km一か八かの賭けとなります。



増槽を取り付けている様子


さらに危険も増します。

増槽を取り付けると機体の重量が増すので、俊敏な動きはできなくなります。

通常、途中で敵機と遭遇した場合は、

増槽を切り離し戦闘するのですが、

今回は途中に緊急着陸できるところもありません。

敵に撃ち落とされるか、

燃料切れで墜落してしまうかの選択になってしまいます。




それを避けるには高高度(8000m)以上の飛行を続け、

敵に見つからないように無線も封鎖しなければなりません。

そして高高度を飛行するということは、

雲の上を飛ぶので地形を目視することもできないのです。

当然GPSもレーダーもない時代ですからコンパスだけが頼りです。

しかし、市来中尉は「私が航法をとるので俺を信じてついてこい」とおっしゃったそうです。
(航法をとるということは、先頭で目的地までの飛行経路や速度、高度の指示をだすこと)

8月15日、市来中尉率いる全32機は台北(台湾)に向けてプノンペンを出発、

同日中に、無事台北に到着、

翌日、8月16日に台北を出発し、鹿児島県の知覧を目指しました。




到着予定時間になっても、一向に陸地が見えてきません。

一度、低空まで高度を下げて確認に降りたいところですが、

戦闘機は上昇するのに大量の燃料を使います。

高高度まで上昇するのにメインタンクの1/3を使用してしまうのです。

一旦上がってしまえば惰性と気流に乗って少ない出力で飛行できるのです。




台北で補給できていないので、燃料も底を尽きかけています。

市来中尉のすぐ後ろを飛んでいた祖父は、

思い切って高度を下げ、雲の下に出ました。

そこで見たのは、まん丸の島でした。

祖父はすぐに屋久島上空だと思い報告しました。

順調にきていると思っていた祖父は丸い島は屋久島で、

知覧まであと少しと思ったのです。




しかし、市来中尉からの返答は思わぬものでした。

「航法誤り、現在、壱岐島上空」

なんと九州を通り越して対馬の手前の壱岐島(いきのしま)のまで来てしまっていたのです。

もう知覧に向かう燃料はありません。

タンクはもう飛んでいるのが不思議なぐらい空の状態・・・

中尉はすぐにこう指示しました。

「目的地変更、福岡、雁ノ巣(がんのす)に着陸する」




福岡第一飛行場(通称-雁ノ巣)は、

戦前では国内で一番大きな民間飛行場でした。

もう燃料がないので我先にと急いで着陸したそうです。




そして、昭和20年8月16日、32機一機も欠けることなく、

無事に全員が復員を果たしたのでした。



当時の雁ノ巣飛行場の写真


到着後、飛行機の腹にある小物入れから、

自分のリュックと軍刀と拳銃を取り出して、機体を海岸線に並べたそうです。

そして、自らのピストルで燃料タンクを撃ち飛行機を焼きました。




中尉から各自故郷に帰還するように命令が出され、涙ながらに別れたそうです。

祖父は、その晩は雁ノ巣で一夜を明かし、

翌日の朝に縛帯(ばくたい)のままパラシュートだけ切り離した状態で、

基地から20km歩き、そこの駅から汽車に乗りました。



陸軍操縦者用縛帯


そして、その日の夕方に故郷の熊本に帰り着いたのです。

昭和20年8月17日無事に復員

終戦後、外地からの復員としては一番早かったのではないでしょうか。

終戦を知った2日後には故郷に帰っていたのです。




家に帰ると、家の前に白黒の幕がかけられていました。

長い間帰っていなかったので、

直感で祖母が亡くなったんだと思ったそうです。

そして、家の中に入ると祖母と親戚のおばさんがいて、

こちらを見て腰を抜かしたそうです。




そう、そのお葬式の準備は祖父のものだったのです。

祖母は泣いて喜んだそうです。

しかし、祖父の心境は複雑でした。

多くの戦友が死んでしまったのです。




終戦後、スラバヤ、プノンペンに残った部隊には、

捕虜として捕まった者や、

翌年から始ったインドネシア独立戦争義勇軍として参加し、

オランダからの独立に尽力した人も数多くいました。

「インドネシア人と共に生き、共に死す」と、

欧米列強の奴隷的植民地支配の解放に一生をささげたのでした。




このインドネシア独立戦争には、

旧日本軍の戦車や銃の多くがインドネシア独立派に譲渡されました。

のちに無事独立を勝ち取ったインドネシアのスカルノ大統領(デビィ婦人の夫)は、

旧日本兵に感謝の意を表され、

戦死した者は英雄としてジャカルタの英雄墓地に埋葬されました。

現在のインドネシア共和国の国旗が赤と白の二色なのは、

日本の「日の丸」を元にしているそうです。




祖父は、そういう話を聞くたびにいたたまれない気持ちになったそうです。

そして祖父の叔父は海軍の特務大尉だったのですが、

中国で終戦をむかえ約2年抑留されることにもなりました。

しかし、祖父たちの部隊は市来中尉の判断で全員無事に復員できました。

後年、祖父は感謝してもしきれないと話しています。

市来中尉は、その後、警察予備隊を経て航空自衛隊に入隊されたそうです。




祖父は、その後、大阪府警の試験を受け大学に通いながら、

警察官として新たな人生をスタートさせたのでした。

これで祖父の終戦前後の話は終わりとなります。

このブログをご覧になられて、

このことに関するなにか情報をお持ちの方はご一報いただけたら大変嬉しいしだいです。




最後になりましたが、

日本は第二次世界大戦で少年飛行兵は、4000人以上、

海軍特別年少兵は5500人以上が戦死し、

少年戦車兵、通信兵、鉄血勤皇隊、防衛隊などの少年兵を合わすと、

数十万人が祖国の礎となってくださいました。

心よりご冥福をお祈りします。




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実録 ほくろからみた陸軍少年飛行兵 「えっ。そうなの!?」 作:細田京香

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祖父の終戦体験 - 少年飛行兵 特攻兵(前半)

今年で祖父が亡くなってから17回忌をむかえます。

僕は祖父母と同居していたので、

幼少の頃から本当によくかわいがってもらいました。

その祖父の戦争体験を忘れないうちに記しておこうと思います。





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