2012年1月19日木曜日

祖父の終戦体験 - 少年飛行兵 特攻兵(後半)

前半はこちら


バンドンから約5時間かけてカンボジアのプノンペンに無事到着しました。

プノンペンには各地域からたくさんの部隊が作戦にむけて集結してきていたようです。

そして8/15正午からの玉音放送にて、

日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏したこと知らされたのでした。




飛行場で泣き崩れ立ち上がれないものや、

このまま捕虜になるぐらいなら敵に一矢報いるという者もいたようです。

しかし、祖父の部隊の市来中尉は、

とりあえず全員生きて本国に帰ることを指示し、準備に取り掛からせました。

しかし難題がいくつもありました。




まず、ここプノンペンから一番近い鹿児島の知覧特攻基地までは直線距離で約3400km。

三式戦闘機(飛燕)の通常航続距離は約1800km。

約2倍の燃料が必要になります。

そして、日本軍はフィリピン、グアム、サイパン、沖縄と次々に玉砕していたので、

途中に着陸できる場所は台湾しかありません。




中尉は全32機の両翼に増槽(ぞうそう追加タンク)の取り付けを命じます。

一つの増槽で約600km追加で飛行できます。

しかし計算上ではこれを二つ付けても合計で3000km一か八かの賭けとなります。



増槽を取り付けている様子


さらに危険も増します。

増槽を取り付けると機体の重量が増すので、俊敏な動きはできなくなります。

通常、途中で敵機と遭遇した場合は、

増槽を切り離し戦闘するのですが、

今回は途中に緊急着陸できるところもありません。

敵に撃ち落とされるか、

燃料切れで墜落してしまうかの選択になってしまいます。




それを避けるには高高度(8000m)以上の飛行を続け、

敵に見つからないように無線も封鎖しなければなりません。

そして高高度を飛行するということは、

雲の上を飛ぶので地形を目視することもできないのです。

当然GPSもレーダーもない時代ですからコンパスだけが頼りです。

しかし、市来中尉は「私が航法をとるので俺を信じてついてこい」とおっしゃったそうです。
(航法をとるということは、先頭で目的地までの飛行経路や速度、高度の指示をだすこと)

8月15日、市来中尉率いる全32機は台北(台湾)に向けてプノンペンを出発、

同日中に、無事台北に到着、

翌日、8月16日に台北を出発し、鹿児島県の知覧を目指しました。




到着予定時間になっても、一向に陸地が見えてきません。

一度、低空まで高度を下げて確認に降りたいところですが、

戦闘機は上昇するのに大量の燃料を使います。

高高度まで上昇するのにメインタンクの1/3を使用してしまうのです。

一旦上がってしまえば惰性と気流に乗って少ない出力で飛行できるのです。




台北で補給できていないので、燃料も底を尽きかけています。

市来中尉のすぐ後ろを飛んでいた祖父は、

思い切って高度を下げ、雲の下に出ました。

そこで見たのは、まん丸の島でした。

祖父はすぐに屋久島上空だと思い報告しました。

順調にきていると思っていた祖父は丸い島は屋久島で、

知覧まであと少しと思ったのです。




しかし、市来中尉からの返答は思わぬものでした。

「航法誤り、現在、壱岐島上空」

なんと九州を通り越して対馬の手前の壱岐島(いきのしま)のまで来てしまっていたのです。

もう知覧に向かう燃料はありません。

タンクはもう飛んでいるのが不思議なぐらい空の状態・・・

中尉はすぐにこう指示しました。

「目的地変更、福岡、雁ノ巣(がんのす)に着陸する」




福岡第一飛行場(通称-雁ノ巣)は、

戦前では国内で一番大きな民間飛行場でした。

もう燃料がないので我先にと急いで着陸したそうです。




そして、昭和20年8月16日、32機一機も欠けることなく、

無事に全員が復員を果たしたのでした。



当時の雁ノ巣飛行場の写真


到着後、飛行機の腹にある小物入れから、

自分のリュックと軍刀と拳銃を取り出して、機体を海岸線に並べたそうです。

そして、自らのピストルで燃料タンクを撃ち飛行機を焼きました。




中尉から各自故郷に帰還するように命令が出され、涙ながらに別れたそうです。

祖父は、その晩は雁ノ巣で一夜を明かし、

翌日の朝に縛帯(ばくたい)のままパラシュートだけ切り離した状態で、

基地から20km歩き、そこの駅から汽車に乗りました。



陸軍操縦者用縛帯


そして、その日の夕方に故郷の熊本に帰り着いたのです。

昭和20年8月17日無事に復員

終戦後、外地からの復員としては一番早かったのではないでしょうか。

終戦を知った2日後には故郷に帰っていたのです。




家に帰ると、家の前に白黒の幕がかけられていました。

長い間帰っていなかったので、

直感で祖母が亡くなったんだと思ったそうです。

そして、家の中に入ると祖母と親戚のおばさんがいて、

こちらを見て腰を抜かしたそうです。




そう、そのお葬式の準備は祖父のものだったのです。

祖母は泣いて喜んだそうです。

しかし、祖父の心境は複雑でした。

多くの戦友が死んでしまったのです。




終戦後、スラバヤ、プノンペンに残った部隊には、

捕虜として捕まった者や、

翌年から始ったインドネシア独立戦争義勇軍として参加し、

オランダからの独立に尽力した人も数多くいました。

「インドネシア人と共に生き、共に死す」と、

欧米列強の奴隷的植民地支配の解放に一生をささげたのでした。




このインドネシア独立戦争には、

旧日本軍の戦車や銃の多くがインドネシア独立派に譲渡されました。

のちに無事独立を勝ち取ったインドネシアのスカルノ大統領(デビィ婦人の夫)は、

旧日本兵に感謝の意を表され、

戦死した者は英雄としてジャカルタの英雄墓地に埋葬されました。

現在のインドネシア共和国の国旗が赤と白の二色なのは、

日本の「日の丸」を元にしているそうです。




祖父は、そういう話を聞くたびにいたたまれない気持ちになったそうです。

そして祖父の叔父は海軍の特務大尉だったのですが、

中国で終戦をむかえ約2年抑留されることにもなりました。

しかし、祖父たちの部隊は市来中尉の判断で全員無事に復員できました。

後年、祖父は感謝してもしきれないと話しています。

市来中尉は、その後、警察予備隊を経て航空自衛隊に入隊されたそうです。




祖父は、その後、大阪府警の試験を受け大学に通いながら、

警察官として新たな人生をスタートさせたのでした。

これで祖父の終戦前後の話は終わりとなります。

このブログをご覧になられて、

このことに関するなにか情報をお持ちの方はご一報いただけたら大変嬉しいしだいです。




最後になりましたが、

日本は第二次世界大戦で少年飛行兵は、4000人以上、

海軍特別年少兵は5500人以上が戦死し、

少年戦車兵、通信兵、鉄血勤皇隊、防衛隊などの少年兵を合わすと、

数十万人が祖国の礎となってくださいました。

心よりご冥福をお祈りします。




関連記事:


祖父の終戦体験 - 少年飛行兵 特攻兵(前半

祖父の終戦体験 - 少年飛行兵 特攻兵(後半)

実録 ほくろからみた陸軍少年飛行兵 「えっ。そうなの!?」 作:細田京香

東京 九段下 祖父の資料探し



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16 件のコメント:

Kギター さんのコメント...

僕の祖父は満州でいて、子供の頃その話をよくをききました
本当に大変な時代だったと思います

後生語り継ぐ義務がありますね、戦争は絶対いけませんね、
生を受け、スマさんや皆さんに出会えた事を
祖父達に感謝

青山 さんのコメント...

誤解されるかも知れませんが、大勢の方がなくなった太平洋戦争そのものは痛ましい歴史であると思っているのですが、だからといって当時の日本人(の政治家や軍人)が悪者のように扱われることはとても悲しいことだと思っています。
自国の発展や、欧米の植民地政策への反抗であった政策でしょうし、なにより選挙で国民が選んだ政党の政策であったはずでしょうしね。
スマさんが書かれているように、「いまの自分がある」この歴史は尊いものだと、思うからです。
戦争を肯定するつもりは全くありませんが、過去の歴史を否定することは、今の自分たちを否定することになると思います。

スマさんのおじい様が、生きて帰ってこられたことに感謝します。
僕の人生は、スマさんはじめ、様々な方々との出会いによって鮮やかになっています。

むむり さんのコメント...

これだけきちんと調べるのは大変だったですね。
私の祖父は元々海軍の軍人だったそうですが、病気の
ため退役していたところに招集がきて陸軍軍人として
沖縄戦で戦死したそうです。
妻(私の祖母)は既に病死していたので、幼い二人の
娘を残して行くのは辛かっただろうと思います。
祖国の礎となってくださった方々が望んでいた日本は
こんな日本ではなかったでしょうね。

貴重なお話をありがとうございました。
是非、語り継いで下さい。

ひろ さんのコメント...

歴史は勝者がつくるもの。東京裁判史観だけで教育を受けてきた僕らの世代から

、情報過多の現代にシフトする中、右左のバイアスだけでなく、中立、もとい、何

が史実なのか分からないという若者も多いと思います。もちろん、僕も分かりませ

ん。こうした祖父の実体験を孫が語り継ぐことで、一つの判断基準になるのは非常

に有益なこと。スマさんが筆を執ったことは素晴らしいことだと思います。

 日章旗掲揚、君が代斉唱。憲法問題にも触れるナーバスな問題。うちの親父も教

育行政に携わっていた頃、とある学校長が君が代を歌わなかったととして、保守派

の新聞に取り上げられ、処分されたことがあります。「君が代条例」が橋下大阪市

長が知事時代に提唱し、維新の会の数の力で可決されたのは、まだ記憶に新しいこ

と。でも、これはファシズムに近いと思います。重要なのは強制などで教育現場の

規律を徹底させるより、子どもたちが国や地域に愛着が持てるよう育てること。

では、子どもたちにどう愛着を持たせるのか。スマさんがおじいさんに教えてもら

ったよう、我々が自虐的ではなく、堂々と「敗者」の史実を語り継ぐしかないので

しょうね。駄文を長々とゴメン。。。

ひろ さんのコメント...

歴史は勝者がつくるもの。東京裁判史観だけで教育を受けてきた僕らの世代から、情報過多の現代にシフトする中、右左のバイアスだけでなく、中立、もとい、何が史実なのか分からないという若者も多いと思います。もちろん、僕も分かりません。こうした祖父の実体験を孫が語り継ぐことで、一つの判断基準になるのは非常に有益なこと。スマさんが筆を執ったことは素晴らしいことだと思います。

 日章旗掲揚、君が代斉唱。憲法問題にも触れるナーバスな問題。うちの親父も教育行政に携わっていた頃、とある学校長が君が代を歌わなかったととして、保守派の新聞に取り上げられ、処分されたことがあります。橋下大阪市長が知事時代に「君が代条例」を提唱し、維新の会の数の力で可決されたのは、まだ記憶に新しいこと。でも、これはファシズムに近いと思います。重要なのは強制などで教育現場の規律を徹底させるより、子どもたちが国や地域に愛着が持てるよう育てること。

では、子どもたちにどう愛着を持たせるのか。スマさんがおじいさんに教えてもらったよう、我々が自虐的ではなく、堂々と「敗者」の史実を語り継ぐしかないのでしょうね。駄文を長々とゴメン。。。

Booですょ さんのコメント...

私も祖父に聞かせてもらった話しを思いだしながら興味深く読ませてもらいました。「愛国心」という言葉でさえ仰々しく取り上げられ、故郷への愛着、郷土愛も醸成されなくなってきているのでしょうか……

日本人は外国の国旗、国歌にも敬意を持ちませんからねぇ…

なか さんのコメント...

凄い話ですね^^;
よくこれだけの資料を集めましたね。。。

ブログ書くのに1週間以上かかってるとツイート見た時は、
こんな内容のブログとは思いませんでした^^;

今まで戦争については学校の授業やテレビの報道で、大まかな流れしか知りませんでしたが…
色んな場所で色んな出来事があるんですね。

この内容はスマさんにしか語れない内容だと思います(^^)
お疲れ様でした!

smurf(JQ3FEP) さんのコメント...

先人の築いた礎を大事にしなければいけませんね。
歴史は繰り返すと言いますが、人類の英知は着実に進歩していると信じてます。

smurf(JQ3FEP) さんのコメント...

僕も全く同感です。時代の正義とは各国々の利権と戦勝国の造るもの。
それは有史以来敗者の宿命だとしても、背負って戦ったものはいつまでも色褪せず真実だけだと思います。
いろいろな運命の糸で今の自分(周りを含めて)がいることに感謝を忘れてはいけませんね。

smurf(JQ3FEP) さんのコメント...

おじい様は予備役だったんですね。
当時は一度退役し予備役だった人も多く再召集されてますね。
祖父の叔父もそうでした。
幼い子供をおいて戦場に行かなければいけない気持ちは想像に余りあることです。
きっと我が子や、その先の日本の未来の発展を信じたでしょうね。
おっしゃるとおり、今の日本は発展はしましたが、なにか大事なものを忘れてしまっているのかもしれません。

smurf(JQ3FEP) さんのコメント...

新聞各社はもといマスコミ全体が左右に別れ互いの歴史観を史実として報道する。
言論の自由が保障されている国家としては至極当然。
しかし「読み手、受け取り手」のレベルがついていっていない為、
取捨選択ができず自分で判断することが出来ない若者。
では教育ではどうか?
まだ取捨選択のできない子供には間違った歴史認識や、教えることすら拒否する教師がいる。
義務教育の学問とはあくまで史実を教え、個人の学ぶ欲求を開花させ
探究心のもと自己育成の基礎を造ることだと思うのです。
国際化と叫ばれる昨今、自国の近代史すら教えないようでは有名無実。
本当の被害者は教えてもらわなかった若者で
「知識のない熱心さは光のない火である。」のようなことになるのではないかと。
自分で考え取捨選択のできる心眼をもてる人を育てる教育が行われて欲しいですねぇ。
法律で縛らずとも、できる柔軟さをどちらも持てれば最高なのですが^^

smurf(JQ3FEP) さんのコメント...

あれこれ資料を漁り当時の状況を少しでも解りやすく書こうと努力したんですが、
読み直すと文才が無いのを実感し、お恥ずかしい限りです。
他の方のコメントに書いてしまいましたが、
現在の教育制度ではきちんとした近代史を学ぶことはできなくなっています。
戦争を実体験した世代もかなりのご高齢になってらっしゃいますし、
きちんと編纂するのは今しかないと思うのです。
その一つとしてこの話が誰かの役に立てれば僕の祖父も話したことに
価値がつくと思うので筆をとりました。

smurf(JQ3FEP) さんのコメント...

おっしゃる通りで「愛国心」なんてものは、深く考えずとも郷土愛などに置き換えれば誰もが持っていて当然のものはず。それが愛国心と名前を変えると軍靴の音が聞こえるだのファシズムだの言われてしまうのですよね。
自国の国歌のみならず、他国の国歌斉唱でも脱帽すらしないアスリートを見るたびに他人を認め敬うといった社会や平和における基本的なことすらも忘れてしまったのかと悲しくなります。
教えてもらっていないからしないのかもしれませんが、知らずにできないのと知ってやらないのでは大きく意味は替わってきます。社会にでて国歌すらも歌えない、脱帽も知らない。
1番可哀想なのはそこで恥をかく教え子なんです。

匿名 さんのコメント...

本記事を元に下記の詩を書きましたが、公表よろしいでしょうか?

詔勅の交差

 昭和二〇年八月十五日正午
 甲高い雑音に聞き取れないままに 玉音放送の
 敗戦の波紋は 静かに広がっていった

カンボジア・プノンペン基地 午後一時
市来中尉 全員生きて日本へ帰る 直ちに準備にかかれ
目的地 鹿児島 知覧特攻基地
直線距離 約3400km 途中着陸できる基地は既に無く
水冷式エンジンを搭載した 精鋭の三式戦闘機飛燕の
通常航続距離 約1800kmをはるかに超える
日本は遠い 両翼に増槽二個の指示
約1200kmの追加飛行に賭ける

大分海軍航空基地 午後四時
自発的という形さえかなぐり捨て 全員特攻の訓辞に
特攻とは死ぬことなりと 教えさせ
生還はまかりならぬと 死ぬことだけを目標にさせ
姿さえ見せることの無かった 雲上の宇垣最高司令長官
鎮守府からの攻撃中止命令を無視しての 最後の指令
 彗星艦爆十一機をもって沖縄に特攻をかける

量産のための追いつかない技術に 性能を落とした機体に
装着されていた50番の爆弾を 80番に積み替え
弾倉をはみ出す爆弾を鎖でつるし 片道分の燃料を抜き取る
剥ぎ取られた海軍中将の階級章に 長い影を残して
夕日を反す別府湾の水面をかすめながら 重く機首を南へ向ける

午後八時
暗い海に 風を失った機体は 自らの影に 特攻した
 驕敵米艦ニ突入撃沈ス  大元帥陛下万歳
ツ-------------………………*
 -戦争は済んだっちゅうに
  なして自分一人で死なんかったとやろか
  あんな若かもんば よおけ連れていきおって
  恨みますばい
*敵機への突入の合図。途切れた時が死亡時刻。
             *50・80番(500・800Kg)の爆弾



八月十六日 午前八時
大きな翼の下に燃料を抱え込み  三十二機が重く
プノンペンの基地を飛び立つ 
燃料節約に 気流に乗る高々度での 
敵機を避け 無線を封鎖しての
地形の見えない雲上の コンパスだけが頼りの飛行
  *
午後三時 
耐えきれず雲を切り 円形の島発見
 タダイマ 屋久島上空ナリ 知覧近シ
 航法ヲ誤マリ 壱岐島上空ナリ  
盲目の飛行に すでに九州ははずれていた
 目的地変更ス 福岡 雁ノ巣飛行場
  *
午後四時 
千年の金印を抱いた島に 手を伸ばす
玄界灘の荒波を遮る 砂州の付け根 全機 着陸
最後の指令 解散 故郷へ還れ

匿名 さんのコメント...

詔勅の交差

名前の記入法が分からず、エラーで匿名となってごめんなさい。
hagio
連絡先 hagios@ja3.so-net.ne.jp

smurf(JQ3FEP) さんのコメント...

このたびは、駄文を読んでいただきありがとうございました。
僕自身、戦争を全く知らない世代ですが、幼少の頃から祖父に話をしてもらったおかげで
多少の知識は得ることができました。

少しでも多くの若者に、悲惨な戦争のこと、今の日本の礎を築いてくださった先人のことを
知って欲しく筆をとった次第です。

実はもう一つ戦争の話を書こうと思っております。
それは母方の祖母の話で、満州北部に農業開拓団として奈良県から16歳で出征した話です。

また書きあがりましたらこのメールにてご報告いたしますのでお目汚しとは思いますが、よければごらんください。

今回は素晴らしい詩を創ってくださいまして祖父も喜んでいると思います。
ありがとうございました。